I_shall_return’s diary

毒にも薬にもならない。時間の無駄にはなるかもしれない。

エモを超えたその先に100%の純愛をー月がきれいー

はじめに

 今回とりあげるアニメ作品は2017年に放映された「月がきれい」である。青春アニメーション大好きな私はもちろん、一部のオタク達の中では人生トップクラスのアニメとして熱烈な人気を誇っている(エコーチェンバー)。

 本作は原作無しの完全オリジナルアニメとして制作会社feel、監督岸誠二という布陣で制作された。feelは「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている続・完」や「人生」、「この美術部には問題がある」といった学園ラブコメ系を描くノウハウは高いだろう。本作も中学校を舞台とした恋愛モノではあるがコンセプトからして、学園ラブコメものとは違うものであり、feelとしてもアニメ業界としても新しい試みの作品であったと言えるのではないだろうか。この作品が生み出された経緯は以下のようなものである。

南健「企画を監督に持ちかけたのは2014年の9月頃です。当時、岸(誠二)監督と『蒼き鋼のアルペジオ ‐アルス・ノヴァ‐』という作品の劇場版を作っていましたが、それ以前から「アニメが得意としている要素をなるべく排除した、リアルな人間のドラマ」を描くアニメをやりたいと考えていました。」
(おたぱる「『実写でやればいいじゃん!』と言われたい」!? 今期“最ムズキュン”アニメ『月がきれい』南健PDインタビュー)

 

以上のコンセプトのとおり本作はアニメでありながらアニメらしさが大きく削り取られた作品となっており、「清純」なイメージを抱かせる等身大な中学生の恋愛模様が描かれた作品であると視聴していて感じた。では、どのような点がアニメらしくなく上記のような印象を与えているのかということや、その他の本作の特徴を明らかにしていきたい。

 

 

1.1話から3話までにおける具体的な演出

 

話に入る前に一話のあらすじを紹介しておく。

小説家志望の文芸部員、小太郎。茜は陸上部で短距離走専門。中学3年になり、初めて知り合った2人。家族と食事に出かけたファミレスで出くわしたり、運動会の用具係で一緒に作業したりが続き、互いを意識し始める。(第一話 春と修羅


 このアニメでまず注目できる既存の恋愛アニメと違う点は、3話で主人公がヒロインに告白するという点だ。では1話で初対面同士であった2人が付き合うまでの3話分にはどのような演出があったのかを見ていきたい。

 まず1話の冒頭で主人公とヒロインが同じクラスになるが、お互いちらっと相手を見るだけで接触はない。そのまま10分間はヒロインの中学校や家庭での日常生活が描かれ、ストーリーは進展を見せない。物語はファミレスでお互い家族と共に食事に来たシーンでやっと動く。お互いの存在に気付くも単なるクラスメイトであることから視線を交わすのみで、家族の会話を聞かれたくないという中学生的心理のあらわれからかむしろ無視しようとしてしまう。2人はドリンクバーで鉢合わせになるもの「あっ」と言うだけで席に戻ってしまう(ただ主人公は取ろうとしていた飲み物を変え大人のカプチーノと書かれたボタンを押している)。その後、保護者同士が気付き会話をするが、2人は退店時に「今日のことは学校では言わないで」(ご飯をたくさん食べていたこと)とヒロインが言うのみでAパートは終り、Bパートはじめで「あの日以来僕たちが喋ることはなかった(主人公独白)」と入るのみである。Bパートでの会話も委員会の関係でヒロインが主人公のLINEを交換するために話しかけた時の1分半程度であり、たどたどしい会話に終始している。しかし2人だけの空間における自発的なファーストコンタクトであるこのシーンでは画面を光が舞う演出がほどこされており、そっけない2人の出会いが輝いて感じるような雰囲気を作り出している。
 
1話において2人の会話シーンは合計2分弱という短さでありながら、関係性の進展を見事に表しているのは先にも挙げた光の演出や、ドリンクバーで主人公がヒロインを意識しているのを感じさせるチョイスをする点、初めてLINEを送る主人公の興奮を「電球の紐でシャドーボクシング」で表現する、「彼氏ぃ〜?」と聞いてくる姉のスマホに嫌がらせでスクショを何枚も撮るが、その顔は1話の中で見せなかった満面の笑みであり「高揚感」の表現がなされているといった、セリフの外にある一つ一つの丁寧な描写によるものであると感じさせる。


 2話においても主人公とヒロインの会話は少ない。2人が会話をするのは18分頃のBパートラストの1分20秒程度である。体育祭で醜態をさらす主人公と、ヒロインと仲の良い男子が目立つ様が対比されている。意気消沈していた主人公が、ヒロインにとって精神安定剤のようなお守りを失くしたという話を立ち聞きし、体育祭中ずっとそれを校舎内で探している様子が競技の喧騒と対比されて描かれる。そして大事な競技でヒロインが失敗し、落ち込んでいる所へ主人公がお守りを見つけてくるのだ。この際、教室には真っ赤な夕焼けが差し込んでおり、体育祭終了時には日が昇っていた描写から、主人公が長時間探し物を続けていたことを強調する演出にもなっているのではないだろうか。2話においても最後の2分程度しか2人が同じ場にいる描写がないにもかかわらず、細かな描写を重ねることで最後の会話の効力を最大限に上げ、距離の縮まりを描いている。
 3話では学校ではお互い会話しないものの、LINEで会話が続いている描写をLINEの画面で描き、さらなる2人の関係の進展を感じさせる。しかしこの時点で明確な恋愛感情を持っていない2人に対して、クラスメイトの告白シーンを遠目に見たり、世間話で恋愛トークをしている集団の横を通ると言った演出で、主人公がヒロインを意識していく様を描いている。LINEで「好きな人がいるのか」と文を書くも、文面を送らず消すといった主人公の様子も描かれる。翌日、部活の大会があるとLINEで報告してきたヒロインのために、神社に行き正式な作法で手を洗いお祈りをするといったシーンが描かれ、ヒロインに対する意識がより鮮明に描写される。大会後、あかねは打ち上げでみんなといる中ずっとLINEを見て主人公からの連絡を待つが来ず、主人公はなぜかLINEを送れず文を書いては取り消すということを繰り返しているうちに、ヒロインが主人公のいる神社に連絡なく来てしまう。途中で間を多くとりながら、とりとめのない会話をするが、沈黙が訪れる。30秒ほどの沈黙が続き主人公がたどたどしく「付き合って」という。多くのアニメーションにおいてBGMがあるとはいえ画面に大きな変化のない沈黙は珍しく、それを30秒近く入れることで、中学生らしいリアリティさを描きだしていると言えるのではないだろうか。
 
 1話から3話までで主人公たちが直接会話交わした時間は5分~6分程度であり、OPとEDをのぞいた全体時間約60分の10%に満たない程度である。しかしながらセリフを伴わない状況描写、アニメとしては独特なぎこちない会話や間の活用、2人の空間の美的演出によって、音声情報の極端な少なさに違和感を感じさずに、むしろリアルであると感じさせる構成になっている。

 

 

2.舞台装置としての「LINE」
 このアニメで大きな役割を果たしてくるのが「LINE」である。この作品が放映された2017年には中学生ともなれば、ほとんどがスマートフォンを持つ時代になっており、他のアニメにおいてもLINEもしくはそれをモチーフにしたアプリが描かれるようになったと思う。しかし多くのアニメにおいて「LINE」は、連絡手段と現代性を表す小道具程度の存在感しかなかったように感じるが、今作では「LINE」が物語を動かす大きな舞台装置として使われているように感じる。

 2人の正式なファーストコンタクトは先にも述べた通り、LINEの交換である。1話でLINEを交換した2人は、メッセージを送りあい即返信しながらコミュニケーションをとり、高揚感を覚えている風に描かれる。2話においても体育祭から帰宅後の2人がLINEでやりとりをし、お互いに笑みを浮かべている姿が描写される。3話でも継続的にやり取りをしていることが察せる画面がある。そして告白に至るまでの流れでは、お互いにLINEが返ってこないことでモヤモヤした気分を抱えたことで、ヒロインが直接会いに行くというものであった。告白までの流れにおいて2人のメインの交流の場はLINEであり、教室で会話することはないままであったのだ。このことが元気ではっきりとした文面のLINEでの会話と、非常にたどたどしい実際の会話のコントラストを演出しており、直接の会話に大きな特別感を与える。またLINEの返信への一喜一憂で互いの気持ちに気づくという点でも大きな役割をはたしているだろう。
 

3話における実際の主人公側のLINE

 

 次に4話では修学旅行に行く主人公とヒロインであったが、主人公がスマホを教員にとり上げられ、ヒロインと連絡ができなくなり、恥ずかしさから他のクラスメイトの目がある中でヒロインに直接声をかけられないまま、すれ違いをおこしてしまう。なんとか落ち合えた2人はお互いの気持ちを確認して正式に付き合うという話が展開される。注目すべき点は、既読がつかないことに複雑な感情を覚えるヒロインであったが、彼女も主人公に直接聞きに行くことはしなかったことだ。2人の関係はLINEでしかつながっていないということが、ここで明らかになるのである。いうなれば2人の関係は「近くて遠い」ものである。物理的には近くにいても、LINEを介さなくてはコミュニケーションが取れず、現実生活でのお互いにしっかりと向き合っていないのである。この問題を抱えたまま2人の関係は11話まで進んでいく。しかし、ヒロインが卒業後に引越しをするということになり、2人の距離は物理的に遠いものとなることが判明する。主人公はヒロインが引越し先で通う遠距離の高校に行くことで解決しようとするが、受験に落ち失敗する。2人の関係が遠距離になることが決まったヒロインは、うまくいくのかという不安を伝えて主人公のもとを去り、引っ越し当日まで2人はLINE連絡をでも取らないままであった。しかし最後に小説家を目指す主人公の投稿した小説を見つけ、自分たちを題材としたものであり、その小説を通じて主人公の気持ちを確認した彼女は小説サイトにコメントをつける。それを見た主人公は走り出し電車に乗ったヒロインのところまで走るが、間に合わないことを悟りLINEを開こうとするが「違う」と言って走り続け、ヒロインの乗る電車に向かって「大好きだー!!」と叫ぶ。
 
これはLINEでしかコミュニケーションを取ってこなかったことによる、現実でのコミュニケーションの放棄を乗り越えることの象徴であり、「近くて遠い」であった構図が「遠くて近い」になったとみることができるだろう。これらの物語を駆動させる装置としてのLINEは1画面に2人の会話を入れ、既読、未読、返信スピード、頻度から多くの情報を読み取ることができ、そこからセリフや過剰な独白なしでの心理描写を可能とするものである。これらの要素を上手く活用し、LINEが生活に大きな影響を与える現代の中学生をリアルに描くことが可能になったと感じる作品であった。


3.性的表現から見るアニメらしくなさについて
 この作品は冒頭で述べた通りアニメらしさを排した作品を目指して作られた。多くの恋愛ものアニメにおいては、男性向けであることから性的な描写が盛り込まれていることが多いように感じる。しかし今作では監督の宣言通りアニメ的な性的表現は必要なもの以外極限までに抑えられている。作中で性的であると感じたシーンを具体的に上げ、それが無意味なものでないことを見ていきたい。


第一のシーンはこれである。



実際のこのシーンではヒロインの臀部が揺れているが、クラスメイトの中心的男子である3人組が「見て見ろよ、尻」というセリフの直後のシーンである、この直前に同じヒロインの走る姿を見た主人公は、ヒロインの凛々しく走る姿に目を奪われているといった風な描写であり、セクハラ的なシーンはそれとの対比であることが覗える。また、この作品においては等身大の中学生を描くことを目標としており、下ネタに走りやすい中学生男子といったステレオを描くためのものであったのではないだろうか。

 

第二のシーンはこれである。
 



怪我をした主人公が保健室に行った際に保険係としてその場にいたヒロインの友人女子に近づかれ、鎖骨に目が行ってしまうというものである。この女子は男子との距離感が近いタイプとして描かれており、そのような女子に急に絡まれ近づかれたうぶな主人公の目線というのは、いかにも中学生男子的ではあると言えよう。描かれるのが通常のアニメのように胸でなく鎖骨出るという点からも、性的なものが抑えられていると感じる。

 

第三のシーンはこの2シーンである。
  

どちらも修学旅行で風呂に行く女子班の様子が描かれたシーンである。上側ではパンツが描かれているが彼女らのものではなく、前の人の置忘れである。修学旅行あるあるネタとして消化されたのみで、他アニメのようにそこから下着をめぐって騒動などには広がらない。また入浴シーンは描かれず、着替えシーンも肩より下、つまり胸はけっして画面に映り込まなかった。


以上の3つのシーンを見たうえでこの作品に登場する性的描写の不必要性は低く、リアリティさを上げるためのみに使われており、胸を画面で映さないといった点が徹底されているように感じる。この様な点も、このアニメが従来の恋愛アニメのような一種のくどさを持たず「清純」という雰囲気を醸し出す要因の一つになっているのではないだろうか。

 


おわりに
 この作品のアニメらしくない点や中学生らしい雰囲気を描いた要因は、今回紹介したもの以外にもプレスコの採用や有名声優でメインを固めず、キャラにあった若い声優を多く集めるなど他にも多く上げられるであろう。SF、ファンタジーというオリジナルな展開や設定を捻り出しやすい要素を全く使わず、現実を舞台としたキャラクター同士の人間関係ドラマのみに焦点を絞っていながら、既視感を感じさせないアニメであった。また、作中で小説家を目指す主人公が、応募した出版社の人間に「君、純文学は向いてないし、売れないよ。ラノベでも書こう」と言われるシーンがある。しかし主人公はそれを鵜呑みにせず、純文学的作品をライトノベルの読者に届けようというのを将来の目標としていた。これはアニメでありながらアニメらしくない、言わばアニメの純文学とも言える作品を目指した今作を暗喩するシーンであると考えられ、その挑戦は成功したのではないかと感じた。

余談になるが、このブログの文章は大学のアニメ学的な講義で1年ほど前に提出したものに加筆修正を加えたものである。書き直すにあたり一通り読み返していたら、最後の「その挑戦は成功したのではないかと感じた」の「成功」が「性交」の変換で提出されているのに気づき叫び声が出てしまった。しかし最高評価のA+を教授からはいただけていたので、異性愛青春アニメーションにかける強烈な熱意がほとばしってしまった結果として受け入れてくれたのだろう。



アイの歌声を聴かせて、異性アイのアニメを見させて

みなさんお久しぶりです。

半年以上前にシンエヴァンゲリオンを見て子供用プール並みの深い考察を書いて以来、特に書くことも見当たらず放置していましたが、久しぶりに言及したい作品を視聴したのでブログを書きました。

さて今回取り上げる作品は何かといいますと、『アイの歌声を聴かせて』です。

このブログを開いてくれた方のほとんどは視聴したアニメオタクの方だと思いますが、CMだけ見れば「君の名は」以降なんとなく増えてきた、一般層にも受けそうなキャラデザの青春モノといった感じですよね。公式のプロモーションもそんな雰囲気を感じさせますしね。ところが悲しいかな、一般層にはウケなかったようでオタクの中だけで評判の良作といったところで終わりそうな雰囲気です。

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というわけで先週金曜の新宿にて見てきたわけですが、緊急事態宣言も解除され人通りもかなり増えてきた華金の映画館ロビーはカップルや楽しそうな大学生、高校生の集団といった活気のある人であふれており、ちょっと肩身の狭い思いをしながらスクリーンにはいってみると一安心。ロビーとはうって変わり冴えない仕事終わりのサラリーマン、オタクっぽい学生の二人組、アニメイトにいそうな30代女性などで席は埋まっており、笑顔が止まりませんでした。そんなことを考えていたせいか目の前をカップルに陣取られ、「アニメは一人で見るもんだぞ!!」とつい叫びそうになってしまいました。

余談はここまでにして、そろそろ本題に入りましょう。今回は特に考察とかではなく感想の垂れ流しです。全部ネタバレするので未鑑賞の方はお気を付けください。

見ていない方は雰囲気を知って欲しいので下記のリンクから予告編を見れば結構ブログの内容がわかると思うのでぜひ見てください。


www.youtube.com

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1.田舎の未来風景

まずは世界観や舞台についての感想です。

舞台は景部市というザ・田舎な感じの地方都市(?)(映画の最後で佐渡島にこの町があることが判明します)。景部市は星間という企業のAI実験都市のような場所であり、住人もほぼ全員企業の関係者とその家族で構成されていることがうかがえます。(トヨタか?)

のどかな田園風景のなかにメガソーラーや巨大な風力発電施設、企業の巨大高層ツインタワービルといった風景も今の時代であればそこまで珍しくもなく、地続きな近未来を表現している感じがしてよかったですね。

他にも近未来を感じさせてくれた点としては、主人公の家にあざとくないAI家電(起きると自動でカーテンを開けてくれる、料理を半自動で作ってくれる、予定管理や帰宅時間などを通知してくれる、鍵の開け閉めを自動でしてくれるなど)が多数設置されているところだ。建物としてはジブリに出てくる田舎の家といった感じで、景観が機械っぽくないところにAIが溶け込んでいる点と、現在でもあるような機能の上位互換といったところに「あざとさ」がないのである。

今まで多くの近未来ものでは大都市を舞台としていることが多く、なんだか親近感がわかないために自分たちの未来の姿として見ることができなかったが、田舎の生活の中にAIなどを溶け込ませることに親近感を抱かさせる効果があったのだろう。

もちろん主人公の家だけでなく、バスは自動運転、主人公たちの通う高校も様々なところにAIなどが取り入れられている。先ほど言ったことと被ってしまうかもしれないが、これらの風景は現在のわれわれの生活風景とほぼ差異がないのである。それっぽい機械や近未来っぽいデバイスもほぼ登場せず、人が操作していたものが単にAI操作に変更されているだけである。

 

2.あの花火なに?

 

ここからはストーリーなどにも言及していくので公式のあらすじをコピペしておこう。

 

景部高等学校に転入してきた謎の美少女、シオン(cv土屋太鳳)は抜群の運動神経と天真爛漫な性格で学校の人気者になるが…実は試験中の【AI】だった!
シオンはクラスでいつもひとりぼっちのサトミ(cv福原遥)の前で突然歌い出し、思いもよらない方法でサトミの“幸せ”を叶えようとする。

 彼女がAIであることを知ってしまったサトミと、幼馴染で機械マニアのトウマ(cv工藤阿須加)、人気NO.1イケメンのゴッちゃん(cv興津和幸)、気の強いアヤ(cv小松未可子)、柔道部員のサンダー(cv日野聡)たちは、シオンに振り回されながらも、ひたむきな姿とその歌声に心動かされていく。

 しかしシオンがサトミのためにとったある行動をきっかけに、大騒動に巻き込まれてしまう――

ちょっぴりポンコツなAIとクラスメイトが織りなす、ハートフルエンターテイメント!

 

 

「アイの歌声を聴かせて」という題名の通りAIが搭載されたロボットのシオン(アイちゃんではないんですよね…)が様々な場面で歌いだし、ディズニー映画ばりのミュージカルが度々繰り広げられる。こんなアニメ映画を見に行く逆張りオタク達であれば、ミュージカル映画といえばこう思うだろう。「なんで急に歌いだすんだよ」「いやBGMとか実際に流れてないじゃん」と。しかしさすがオタク向けアニメ、ちゃんとそのツッコミに答えられる作品作りとなっていた。まずAIのシオンが突然歌いだすことには主人公たちも困惑しているのである。第一関門クリア。次に突然BGMが流れる現象であるが、本作でミュージカルシーンが始まる際にはシオンが学校の放送器具や自動ピアノ、スマホなどを乗っ取って音楽を流しだすのである。BGMは視聴者だけのものでなくアニメの世界の中でもしっかり流れているという演出は新鮮であり、ミュージカルが嫌いそうなオタクも黙らせる画期的な手段であった。(※先ほどのリンクにあるPVの柔道シーンなどがいい例だろう)

ところがここまでを踏まえて一つ違和感のあった演出があった。本作ではシオンが周囲の機械を乗っ取ることで音楽演出や光の演出などをアニメ世界の中でも行っている。ようするにその演出は主人公たちにも視認できており、視聴者だけが認識できるものではないものである。さて問題のシーンだが中盤の最大の見せ場である、メガソーラーと風力発電施設でのミュージカルシーンである。サトミを幸せにしようとするシオンは、サトミのことを好きなトウマに告白をさせようとするのである。そのさいにミサトが幼いころからずっと見ている「ムーンプリンセス」という似非ディズニープリンセスアニメの告白シーンを再現しようとするのである。

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⬆︎ムーンプリンセスのシーン、アニメ内のシオンの再現風景は最初に上げたYouTubeリンク内にあるので是非見返して欲しい。

 

独特な形状をした風力発電機のライトを使用したライトアップ、メガソーラーの角度を調整し星空や月を反射させ即席ウユニ塩湖など面白い演出であったがこれらは、シオンの乗っ取りによる操作なんだと理解出来る。ところがムーンプリンセスの例のシーンでは大量の花火が打ちあがっており、シオンの再現でも同様に大量の花火が打ち上げられていたのである。この花火をシオンとトウマ達が用意したり、何かの機械を乗っ取ったと示唆しているシーンはなく、アニメ的な視聴者だけが認知できる演出に見えてしまった。このシーンまでは全ての場面で、アニメ内の現実で演出も行なわれており、さらにはこのあとのクライマックスである企業ビルでのシーンでも同様のことが行われていた。にもかかわらず、取り上げたシーンだけ違和感を持たせてしまうのである。おそらく例の花火は実際にアニメ内の現実でも打ち上げられていたと考えられるのだが、それを示唆するシーンがないせいでそれ以外で一貫しているものが台無しになっている気がしてもったいなかった。

 

3.青春とは男と女の恋愛である

重箱の隅をつつくような指摘を行ってきたが、本ブログで一番力説したいのは本章である。上記の章のことは忘れてくれてかまわない。

このアニメの主人公はサトミという女子高生であり、人型AIロボットのシオンはなぜか主人公のことを幸せにしようと様々なアプローチをかけてくる。JKをJK型AIロボットが幸せにしようとするさまを見れば、昨今のオタクどもは「百合じゃん」と喜ぶであろう。実際、最初にリリースされた予告編のムービー(すぐ下)もそう感じさせるようにできているし、ポスターからしてもそんな雰囲気を感じさせる。


www.youtube.com

ところがどっこい百合オタクども残念だったな。

これは異性愛アニメなんだな!!ガハハ!

さて百合オタクくんたちが驚き震えているいる間になぜ異性愛アニメなのかを説明しよう。さきほどの章でも述べた通り、登場人物の一人である機械オタクでサトミの幼馴染のトウマは彼女のことが好きなのである。中盤には告白まであと一歩というかお互い相思相愛なのを確かめ合っているシーンがあるので、もうこの時点で百合の出る幕はないのだが、衝撃の真実がラストで明らかになる。

サトミの母でありシオンのプロジェクト責任者であるミツコのことが気に食わない上司により、シオンは回収され星間のビルに連れ去られてしまい消去される予定となる。

しかし連れ去られる直前にシオンがトウマの持つサーバーに自身のバックアップデータを送信していた。それを見た主人公たちはシオンの正体を知る。彼女はトウマが小学生の頃、サトミのためにプログラムを組み込みプレゼントしたたまごっち型の携帯機器の中にいた初歩的なAIだったのだ。トウマはAIに「サトミを幸せにして」と命令し、サトミは肌身離さずそれを持ち歩いていたが、しばらくするとサトミの母親に取り上げられてしまい、星間のラボで消去されたのだが、トウマの作成したAIはインターネット上にデータだけを送り逃げ延びていたのだ。数年の間、ネット上にいながらも「サトミを幸せにする」という使命を忘れなかったAIは星間のラボで開発されている人型ロボットAIのシオンに目を付け、サトミのそばにいるためにシオンを乗っ取ったのである。

本作最大の謎であった、なぜシオンはサトミを幸せにしようとするのかという答えは提示された。そうトウマがそれをシオンに命令していたからである。

本作のラスト、シオンを星間のビルから連れ出しシオンのデータのみを衛星に送信した翌日、主人公達は学校の屋上で思いにふける。そこに突然衛星にデータを移したシオンからの着信が来る、「私があんなに背中を押したのにまだうだうだやってるの?」その言葉を受けたサトミとトウマはお互いの気持ちを確かめ合うのである。そしてサトミはトウマにこう言うのだ。

「最初に私の幸せを願ってくれたのは君だから」

 

もはや言うまでもないだろう、トウマがサトミの幸せを願いそのためにシオンが生まれたのだ。トウマの愛が形となったのがシオンである。百合はチン堕ちのための前座でしかないとはよく言うが(よく言うのであり、事実そうである)、まさしく百合っぽいものはトウマとサトミの愛を成就させるための前座でしかなかったのである。

ガールミーツガールに始まり異性愛に終わる本作は素晴らしい作品であった。

騙されたすべての百合豚どもよ、思い知ったか。

これが青春である。

 

と、まあ勝利宣言はここまでにしてちょっと真面目な感想を

ボーイミーツガールでSFだったりファンタジー的な要素があるものは、主人公(男)が捕らわれたり問題を抱えたヒロインを救うという構造になりがちである。本作ならAIに恋した男が捕らわれたAIのヒロインを取り戻しに行くという構図になるだろう。ところが今作は、主人公を女の子にしながらも、囚われのヒロインを別の女の子として用意したうえで、男と女の恋愛もやっている点が個人的には新しい試みであると感じた。

ちなみに何故シオンがミュージカルをやっているかというのも、小さい頃からサトミがディズニーミュージカルぽいムーンプリンセスが好きなのを知っていたからです。なぜミュージカルなのか理屈で説明できてしまうミュージカルってなんかオタクぽくて嫌ですね。

 

おわりに

正直他にも語りたいことは多いが、散発的な話題となり大した分量にはならないのでこれまでとする。それにAIものとしてのシンギュラリティやらのSF的な考察などは賢い人がやってくれるだろうからね。

この作品はジュブナイル映画としてかなり質が良いモノであると思う。王道なストーリーラインでありながらもシオン、サトミ、トウマという3人を絡ませる新鮮な構造、シリアスはもちろんコメディチックなシーン、田舎における近未来を描いたこと、アニメではなかなか使われないミュージカル要素を上手く取り入れたこと、まとめるとこんな感じだが、まだ見ていない皆さんはぜひ見に行って欲しい。

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サトミちゃんマジで可愛いよ

女オタクオタク

今回はとても短いお話です。弱キャラ友崎くんに登場するレナという女性キャラクターと屋久ユウキ先生について語っていきたいと思います。

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レナというキャラクターのプロフィールを紹介すると、友崎がアタファミのオフ会で出会った20歳の女性である。彼女は抜群のプロポーションと男の好みを理解した服装でオフ会に現れ、界隈の男を落としてヤるのを楽しんでいる女性なのだ。日南葵のおかげでイケメン(笑)になり、アタファミ日本一というネームバリューもある友崎に対して熱烈なアプローチをかけ、下着自撮りを送ったり、オフパコを持ちかけたりするのである。まあ、一言で言ってしまえばTwitterの自撮りアイコンでオタサーの姫をしているFF比1:15くらいの囲われだ。彼女は短編集の中で有名配信者の男性を自ら誘惑し、お持ち帰りされることで囲いの女を煽るといった行動を見せる。

結論から言おう、友崎くんにおいて高校生のリア充として描かれるキャラクターなどにはリアリティが薄いのだが、このレナというキャラクターだけ異常にリアリティがあり描写が細かいのである。

例えば彼女のLINEの登録名は「R*」であると作中明かされているが、これは風俗やキャバクラ、ガルバ、パパ活などに手を出している女性が身バレのためによくつける名前のパターンである。

こんなところで何故リアリティが出ているのだろうか?

答えは屋久ユウキ先生の経歴にあると私は睨んでいる。ラノベ作家の学歴経歴に詳しいフォロワーさんの情報によれば屋久ユウキ先生は配信者をしていた時代があったそうである。配信者、そう配信者である。レナにお持ち帰りされたのも配信者である。もちろんイケてる御尊顔と一流のトーク力を活かして数多のファンを獲得しオフ会にも多く参加したことだろう。屋久ユウキ先生のインスタを見てみると、女性とのツーショが多いが、それらの女性はそこまで有名でないグラドルやレイヤー、アニソンDJなどが多い。Twitterのオタクでありながらウェイもやるみたいな界隈に1番多くいる人種だ。配信者時代であればこのようなタイプの人と出会う機会が多かったことは言うまでもないだろう。つまり屋久ユウキ先生の周りにいる女性の多くはレナのような女性であったと推測できる。

このような理由でレナというキャラクターにだけ無駄なリアリティが付与されているのだ。

もしかして屋久ユウキ先生もコスプレイヤーさんとオフパコなさっていたんでしょうか?私気になります?

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あの壁の向こう側

はじめに

 みなさんお久しぶりです。半年近く友崎くんブログを更新せずに惰眠をむさぼっていた僕ですが、つい先日1月19日の「弱キャラ友崎くんLv9」にむけて積んでいた弱友既刊を全て読破しました。7巻で物語に大きな動きはあったものの、日南葵と友崎文也の関係性に4巻~7巻では動きはなかったため退屈さを感じました。しかし8巻、8.5巻、そして新刊の9巻では物語が大きく動き始め、屋久ユウキ先生の文才がほとばしる素晴らしい作品となっていました。今回のブログではなぜ8巻から物語が大きく動き始めたのかということに関して述べていきたいと思います。2000字程度なんですぐ読み終るよ。

 

注意:新刊の9巻までの内容に触れるため、多大なネタバレを含みます。

 

 

Salon de Hinami

 8巻におけるメインの舞台は「オフ会」でした。アタファミで日本1位でありながらも、SNSなどでアタファミ界隈のような集団に属していなかった友崎だが、日南との出会いを経て心境が変化し人生で初めてのオフ会(1巻の日南とのオフ会は除く)にいくことになったのだ。

この物語においてオフ会に行くというのは非常に大きな意味を持っている。この行動が持つ意味は作中で初めて友崎が日南葵の影響力が及んでいない世界に自ら足を踏み入れたということである。今まで物語の全ては日南葵が影響力を揮える、クラス、学校のコミュニティーの中のみで進行していたのだ。唯一の学外であるバイト先でも水沢というクラスメイトがいる以上、日南葵の世界の延長線上であった。友崎は初めて日南葵に縛られないコミュニティに参加したのである。しかしオフ会に日南葵を連れて行ってしまうあたりが友崎らしいと思うが、これには理由があるので大目に見てやろう。

さらにオフ会には重要な点がもう一つ存在する。まず1回目のオフ会で20歳の女性レナ(おそらく無職でパパ活やってると思われる)が登場するのだ。2回目のオフ会ではプロゲーマーである足軽という人物(社会人男性)も登場するのである。レナはザ・Twitterに自撮りあげてる囲われ厄介女的な存在で友崎を堕とそうとしてくるのでいったん置いておくが、足軽は社会人でプロゲーマーと会社員を兼業しているという設定だ。

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レナちゃんです。可愛い、いやエロい。ちなみに非処女です

メンヘラではないのでそこは断じて間違えないでほしい。安易なオタクども聞いてるか?

これは何を意味するかと言うと、この作品においてはじめて社会にでている大人という存在が登場したという点にある。以前に下記のブログで指摘した通り、7巻までの友崎くんは物語の中から徹頭徹尾、大人を排斥していたのだ。(ぜひ読んでね)

 

i-shall-return.hatenablog.com

大人が出てこないとはこの作品においてどのような意味をもつのだろうか?

答えは簡単である。友崎文也にとっては日南葵が疑いようのない絶対者であるということだ。日南葵の助けを借り、カースト下克上を成し遂げた友崎には多くの友人ができたが、自分が日南の助けを借りて成長していることは秘密であり、友崎が「人生」について相談できるのは実質的に日南葵ただ一人になっていたのである。また7巻までの中で友崎は何度か日南葵の人間性に疑問を抱くも、それは日南葵という人間に支配された箱庭であるクラスという世界にいる限り具体化されることはなかった。この呪縛ともいうべき構図がオフ会による友崎文也の世界の広がりによって打ち砕かれたのだ。

詳細は省くが、オフ会で出会った2人の大人に対して友崎は人生相談を行うのであった、その会話の中で友崎は日南葵に関するある気づきを得る。そして物語の最後で日南葵にその「気づき」を突き付け、日南葵との今までの関係の終わりを突き付けるのであった。多くの青春モノ、特に大人と子供の過渡期である高校生がメインとなる物語で、大人は学校という狭い価値観しか知らない高校生に、新しい価値観や在り方を示す存在としての役割を与えられる。そのような存在を8巻まで決して出さず、学校という日南葵が絶対者たりえる箱庭の中で物語を進行させ自己啓発ラノベぶりながら、8,9巻でいきなり大人を登場させ日南葵が作り出した壁の外の世界を見せることで彼女の神聖なベールを一気にはぎとるという構成は素晴らしいと言わざるをえない。

 

おわりに

 1巻のオフ会で出合い頭にこれまでの友崎の人生を否定し、自分であれば友崎を変えてあげられると言い、自身が絶対者であるクラスの中で友崎を操り、指導者として仰がせるやりくちはまさしく怪しいカルトのものである。言ってしまえばこれまでの友崎くんという作品はカルトへの入信と脱退を描いた物語なのである。

この物語が前進するためには、友崎が日南葵を否定しなくてはならないということは以前から感じていたが、「大人」という舞台装置を用いて一気に物語を転換させる屋久ユウキ先生は、まさしく令和の太宰と言っても過言ではない。なので8巻において、読み飛ばしても何ら問題がないアタファミとかいう格ゲーの対戦描写に30Pくらい使ったことは不問に付しておく。

It's a small world

はじめに

みなさんお久しぶりです!数々の友崎くん記事を執筆し、オタクたちの心をつかんだ大人気ブロガーの僕でしたが、アンチの悪行に耐えられず筆を折っていました。しかし令和の太宰治もとい屋久ユウキ先生からのいいねに元気づけられ戻ってきた次第です。ブログも「I_shall_return's diary」に名前を変えて、絶対負けないぞという気持ちが強まっております。英語が苦手な方に説明すると、shallは自分の意思を越えて神の意志的なものが含まれてるらしいですね。Deus vult !!!!!

自分語り(西尾維新)はそこそこにして、本題に入りましょう。今回は俺ガイルと友崎くんの対比をしていきたいと思います。書きたいことが取っ散らかってまとまりのない文章になってしまいましたが、どうぞ最後までお付き合いのほどを…

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今回言いたいことはこの画像に全部詰まってますのでこれ保存してくれたら、記事読まなくてもいいかもしれませんね。

 

Childhood's End

俺ガイルにあって、友崎くんに無いものとは何でしょうか?

先に答えてしまうと、「大人」です。気にして読んでいないと意外と気づかないのですが、友崎くんの世界からは徹底的に大人の存在が排除されています。学校が舞台のラノベであれば、担任キャラなどで先生がネームドキャラとして配置されていることが多いと思うのですが、友崎くんには先生どころか大人が物語の展開に介入したことは、とりあえず僕が読んだ6巻までで一度もありません。

学園ラノベでメイン舞台となるのは、当然クラスや部活といった子供だけの世界です。しかし、そこに大人が現れることで、子供の世界の住人は、己の未熟さや弱さを実感し、立ち向かうために成長するというようなストーリーラインのものも少なくありません。また子供だけの狭い世界での価値観、経験だけで解決できないものにぶち当たったとき、大人が介入することで子供は新たな指針を見つけるなどといったストーリーラインも典型的です。学園ラノベは総じて高校生という、子供から大人への過渡期を描いてるゆえにこのような展開になる傾向が強いのでしょう。

 

では具体的に俺ガイルを例にして見ていきましょう。俺ガイルにおいてこの大人の役割を担うのは、平塚静と雪ノ下の母親である(なぜか雪ノ下母、下の名前が設定されていないのだ)。

雪ノ下母はヒロイン雪ノ下雪乃を抑圧するものとして、親という壁の役割。そして比企谷八幡にとってはPTA代表として大人の世界そのものを体現する壁としての役割を持っている。つまるところ俺ガイルという作品のラスボスが雪ノ下母なのである。大人になりたがらない彼らは、大人への抵抗を通じて結局大人になっていくというのが俺ガイルの導き出した答えの1つなのではないだろうか。

次に平塚静だ。彼女は比企谷八幡を、唯一最初から気にかけていた存在である。雪ノ下と比企谷を奉仕部に入れ、他人を必要としなかったこの2人に、他人を必要とすることを教えようとしたのだ。作中で八幡も雪乃も、他のキャラと比べると冷静で思慮深く「大人」に近い存在であるように見えるかもしれない。しかし彼らは「大人ぶって」いるだけの万能感に支配された子供なのだ。その点作中の中で一番幼稚なのはこの2人かもしれない。(余談になるが、この意見を正しいものとするなら、ヒロインバトルは最初から決着がついていたのである。なぜなら由比ヶ浜は最初から他人を必要とする人間であり、二人のもつ、乗り越えるべきものとしての「孤独」を持っていなかったのだから)

そんな二人を大人として教え導く師としての役割が平塚先生には与えられている。

子供に必要なのは庇護者である、幼稚な2人が大人から助けてもらえる最後のチャンスとして平塚先生が用意されているのだ。

作中で比企谷が行き詰ったとき、間違えそうになっているとき、たびたび平塚先生は彼に助言を与え新しい視点を与えてくれる。平塚先生が雪ノ下に何かを語りかけたりするシーンは少ないので、雪ノ下にとっても師と言えるかはちょっと微妙だけど、これは一人称小説なので仕方ないね☆

最終的に平塚先生は比企谷たちが3年に進級するのと同時に他校に異動になってしまうが、これは大人になった比企谷と雪ノ下にとって平塚先生の存在が不可欠でなくなったことを暗示しているのだろう。

なんだか上手くまとめられなかったが、俺ガイルは物語において大人が重要な役割を果たしているのである。

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平塚静27歳と恐らく40代のママ2人。ガハママの方が静ちゃんより若く見える気がしなくもないが……

それはさておき義母にするなら絶対にガハママの方がいいですよね。雪ノ下ママが義理の母に、陽乃が義理の姉になるけど、比企谷くん本当にそれでいいの?あと雪ノ下さんが父親の政治家としての地盤引き継ぐなら、比企谷君が婿入りするので雪ノ下八幡になるよね。まあ弱キャラ友崎くんのヒロイン日南葵曰く、学生の恋愛なんて結婚まで繋がることはほとんどないから心配ないか(ガハハハハ)

 

 

Never land

では、友崎くんの世界を解説していこう。もう一度言うが自分は原作6巻までしか読めていないので、ズレた認識があるかもしれないことに留意してもらいたい。

友崎くんの物語の中で今のところ存在が確認できた大人は、友崎の母、担任の先生、中村修二の母親、友崎のバイト先カラオケ店の店長である。しかし、この4人がストーリーに絡んでくることはなかったと言ってもいい。唯一、中村の母が絡んでくるとも言えなくはないが、結局中村が自己解決しているので主人公たちが直接かかわることはなかった。作者が意識して書いているのかどうかわからないが、徹頭徹尾この物語には大人の影がちらつかず子供の世界だけで話が進んでいくのである。そもそもこの作品において、主人公の師となるのが大人ではなく日南葵である。しかしこの人生の師匠として配置された、日南葵という人物も全くもって、大人とはいいがたい。むしろ雪ノ下同様、もしくはそれ以上に幼稚なのである。日南葵は人生をゲームと捉え、ルールさえ把握すればすべて思い通りにいくと主張している。彼女は人を利用しても頼ることはせず、はたから見れば友人や親友に見える相手に対しても、分厚い何重ものペルソナをかぶり自分を隠蔽しており、真の意味で他人に頼るということを忌避している。これが幼稚と言わずして何といえようか。人生に勝ち続けてしまったがゆえに、青春特有の万能感に支配されたままの子供が日南葵なのである。そんな人間を師匠としてリア充になることを目指し、人生がゲームであるという価値観から抜け出せない友崎も幼稚なのである。まあ友崎は原作3巻において、その日南の幼稚さの一部を指摘し、それを共に乗り越えさせようとするので友崎は着実に大人への道を歩もうとしているとは思う。しかし原作6巻にいたっても日南葵はまったく進歩を見せず、1巻の精神状態と大差がない。これは俺ガイルにおいて、「大人」である平塚先生が最初から二人にたどり着くべき道を示し、物語がそれに向かって進んでいくのに対し、友崎くんにおいては、道を示す大人がいないどころか、間違った道を突き進む人間を師としていることから生まれた差である。

大人の不在により進むべき道が示されず、友崎くんはいまだに俺ガイルが1巻でたどり着いたところにすらたどり着けず、表面的成長の話ばかりが進んでゆき、内面的成長がないまま子供の世界を彷徨っているのだ。

 

 

いであ!

俺ガイルがホンモノを求める物語であることは、共通認識なので語る必要がないと思う。しかし友崎くんもホンモノを求める物語であることは、意外とわかってない人が多いのではないだろうか?

友崎が3巻で日南葵に対し「自分が本当にしたいこと」をやると宣言し、日南葵は「本当にしたいこと」などないと思うが、そこまで言うのであれば、その存在を自分に証明して見せろといった。この時点で友崎くんの主題は表面的なリア充成り上がり物語ではなく、ホンモノを求める物語になったのである。問題なのが日南葵がホンモノの存在を否定しているので、ホンモノを探すというのが主人公とヒロインの共通目標になっていないことだ。これがいまだに俺ガイル1巻の到達点にたどり着けていないと言った理由である。

俺ガイルは比企谷と雪ノ下がホンモノを欲しながらもお互いの自意識が邪魔して解決までに時間がかかり、そこに物語の焦点が当てられている。対して友崎くんでは3巻の時点で、友崎の課題はほぼ乗り越えられ、日南葵がホンモノの存在を認めてしまえば二人は晴れて結ばれるであろう。しかし日南葵が俺ガイルにおける比企谷と雪ノ下二人分のやっかいさを、合わせたのと同じ程度のやっかいさを一人で抱え込んでいるので、ことはそう上手くいかないのだ。たぶんこの二つの物語はホンモノにたどり着くまでのベクトルが違うんですね。なので俺ガイルと単純に比べるのはあんまよくないですね。

まとめると、俺ガイル1巻までの到達点が友崎くん1巻~最終巻一歩手前の巻で乗り越えられ、俺ガイル2巻~最終巻で乗り越えられていったものが友崎くん最終巻で解決されるのでしょう。

 

帰ってきた涼宮

俺ガイルは比企谷、雪ノ下、由比ヶ浜の3人の狭い世界を書き込んだ作品で、友崎くんは学校というスクールカースト世界を描いた広い世界の物語のように感じるかもしれない。しかし逆なのである。大人がでてくる俺ガイルはクラス、部活、学校、社会という大きな世界で話が進んでいき、その副次効果として恋愛が進んでいくように思える。対して友崎くんは徹頭徹尾友崎と日南の二人の世界があり、その舞台としてクラスという狭い世界が用意されているだけに過ぎない。友崎くんでは、クラスの外がメインの舞台として登場することはほぼないのだ。バイト先のカラオケ店が辛うじてそれにあたるが、メインの舞台にはなりえていない。俺ガイルは広い世界を押し付け、だんだんと大人になっていかざるを得ないことを暗示してくるが、友崎くんはずっと子供だけの狭い世界におり、幼稚でいたとしても誰にも追及されないのだ。大人の出てこない学園モノの特徴は往々にして、一人の圧倒的なヒロインと主人公の二人だけの関係にひたすら焦点を当てるものが多いと思う。代表的なのは『涼宮ハルヒの憂鬱』だ。彼女も万能感に支配された少女の一人であり、物語はハルヒキョンの二人の世界を中心に進んでいき、ハルヒの幼稚さが度々強調されている。ハルヒは完結しなかったので何とも言えないが(ハルヒは結末までもGod Knowsにすることはないのに…)、ハルヒも友崎くんもヒロインの幼稚さを社会ではなく、彼氏としての主人公が解決する物語の系譜なのではないだろうか。

雑語りであれだけど、つまるところ日南葵ってハルヒの後継者なんじゃないですかね?

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やっぱ、ともひないいっすね…いいけど日南葵みたいなのは彼女にしない方がいいよな

 

 

おわりに

案の定論理的結合性の薄い構成になってしまったが許してほしい。書いてて思いましたが、青春モノのいい作品には、かっこいい大人が必要ですね。俺はもう高校を卒業しているので、比企谷八幡にはなれないけど、平塚先生にはなれる可能性は残っている。高校教員になり、修学旅行の夜に生徒をこっそり連れまわしてラーメンを奢り、ドヤ顔で生徒に人生の先輩ぶるのは絶対に気分がいい。悲しむべきは自分が教育学部でないことだ。今から教員免許を取ろうものなら、大学生活から余暇と言うものが消え失せてしまう。しかたがないので、定年退職後に用務員のおっさんとして高校に努め、名物ジジイになるほうに方針転換だ。

 

 

#友崎くんチャレンジ

はじめに

 季節もそろそろ夏に移り変わり、日増しに暑さが増していく…と言いたいところだが、日中に寝て夕方に目を覚ましている僕は特に季節の変化を感じていない。僕に夏の訪れを知らせてくるのは、この時期になるとセミの鳴き声よろしくうっとうしいまでに「最高の夏」を連呼するオタクどもである。ありもしない最高の夏とやらを欲しながら何もしないオタクたちのなんと哀れなことか。そんなオタクたちの対極にいるのが今回のメインテーマとなる友崎くんチャレンジをする人々である。あまりにも自然な導入過ぎて自分でも感動している。令和の太宰治こと屋久ユウキ先生が書く文章を熟読したので、僕も文才が身についたのかもしれない。

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水沢ハーレム王みたいな位置にいるな。ハーレム王ってのは杉崎鍵ですよ。


 

 

Let’s enlighten !

 皆さんは友崎くんチャレンジというtwitter上のハッシュタグをご存じだろうか?もしご存じないのなら見てくるといいと思う。青春を生き生きと過ごす若者たちの葛藤と喜びに満ちた世界が垣間見えるからだ(笑)。しかし自分で見るのが億劫だという読者のために僕が説明しよう。このハッシュタグの起源は「弱キャラ友崎くん」というラノベである。このラノベの表面的な主題が何かというと脱インキャである。もう少し詳しく紹介すると、学内カーストトップ美少女日南葵の指導の下、カースト底辺インキャ友崎文也が陽キャに進化していくシンデレラストーリーである。日南葵は毎日具体的な課題を与えてそれをこなすよう友崎に求めている。課題の内容は、女子3人以上に話しかける、陽キャ男子を弄る、女の子を誘って二人で遊びに行くなどいろいろだ。もちろん話が進むにつれて難易度も上がっていく。そしてこの課題は日南によって設定された目標を達成するためのものである。目標は3つに分かれている。

1.小目標-家族、または身近な友達に「彼女でもできた?」と聞かれること。

ようは直接指摘されるほどの表面上の変化が起きたと認識されればいいのだ。

(友達のいない友崎に「身近な友達から」って言う日南葵、面白いですね。)

 

2.中目標ー3年に進級するまでに彼女を作ること

ちなみに友崎が日南にこの目標を提示された時点で彼は高校二年生の六月である。

作中でこの課題クリアするために最初に日南が選んだ女の子が6月より前から友崎に脈ありの女の子なんですがそこのところどうなんですかねぇ。

 

3.大目標ー日南葵と同じくらいのリア充になる

学年一の人気者になれと言ってるのである。もっと言えば大宮駅で待ちあわせをしているときに「あれって日南葵じゃね?」と言われてるのを聞いて驚く友崎に「私はこの地域の有名人だからね、顔が知れてるのよ」とドヤ顔で言えるくらいになれというわけである。大宮ってそんな狭い村社会なんですかね?都民なんでわからないんですけど。

 

僕が読み進めた3巻までの間に達成された目標は小目標のみである。中目標も達成されそうだったが、ある事情で友崎自身が目標達成を回避している。原作内時間で2ヵ月程度の間にこの進歩具合には脱帽する。(僕は20年弱キモいままだというのに)

他にも日南葵は服装、髪型、姿勢、話し方などを友崎に直接指導し、休日は擬似デートまでして彼のリア充経験を積ませたり、彼が課題をこなせば褒め、アドバイスをし、失敗したときやうまくいかなさそうな時は持ち前の人望をフルに活用してヘルプしてくれる。これが原作内における脱インキャのプロセスでありストーリーの根幹をなす設定である。

 

 

 友崎くんチャレンジとは?出所は?人気は?彼女は?調べてみました!

さて、ここからが肝心の友崎くんチャレンジの話だ。このラノベは現在大変な人気を博している。かの有名な文芸雑誌「白樺」に勝るとも劣らない日本文学史史上最高の文芸雑誌「このラノベがすごい」では2020年文庫部門で三位にランクインし、アニメ化も決定している中高生に大人気の作品である。中高生というのが創作物に最も影響を受けやすい年代だからか、読者の中から友崎くんのように脱インキャをめざして行動し始める人々があらわれたのだ。友崎くんの原作にならい、小中大の目標を立て毎日決めた課題をこなしていくかれらは友崎くんチャレンジのハッシュタグで自分たちの行動や課題を報告し、同志をフォローしてお互いに評価しあったりしながら切磋琢磨しているアカウントが見ている限り多いと思う。原作者である、令和の太宰治こと屋久ユウキ先生がtwitterで自身の作品について大っぴらにエゴサーチを行う方なので、それも相まって友崎くんチャレンジというムーブメントは実質作者推奨のものとなり、さらなる広がりを生んだのだと予測される。

ここまで書いて憶測で書くのはよくないと思い友崎くんチャレンジの発祥を探ってきたので報告しよう。このはハッシュタグをuntil検索でたどって行ったところ、タグとして一番古いツイートは2018年8月3日であったが、友崎くんチャレンジという単語が確認された一番古いものは2018年7月30日である。この4日間の差はなにかというと、友崎くんチャレンジを始めたツイ主がハッシュタグ化したのが8月3日であるというだけだ。この創始者は初投稿の日から毎日欠かさず投稿を続け、友崎くん界隈の人々に少しづつ認知されていたようである。しかし彼のチャレンジが200日目を越えても他のアカウントがタグを使うのは全く観測できなかった。(一つだけ2019年5月20日から友チャレを始めたアカウントはあった)。しかし転機が訪れる。2019年6月9日、作者である屋久ユウキ先生が、200日以上欠かさず投稿をする友チャレ創始者の方を自身のツイートで画像とともに紹介したのだ。そのツイートは7000件近くのRTと18000件のいいねを集め一気に友崎くん界隈に認知されたのだ。この日を境に多くの中高生が#友崎くんチャレンジを始めたのだ。このムーブメントは作者の宣伝からちょうど1年たった今でも毎日投稿がなされている。

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現物です。さすが大人気作家。

 

 

余談だが友チャレの開祖は2019年10月10日で自身のチャレンジが1周年を迎えたことを理由にチャレンジを終了し、それ以後はほとんどtwitterに顔を出さずログアウトしていると思われる。彼は週ごとに目標を立て実行していくスタイルであった。365日間の全てのツイートを読んだが、徐々に成長していき1年を迎えるころには会話も自然とでき、知らない人との会話にも抵抗がなくなっているようであった。残念ながら彼女はできなかったようだが、切磋琢磨する同志もいないなかトライ&エラーを繰り返し、よく継続したと思う。最後のツイートを見たときは思わず「痛みに耐えてよく頑張った、感動した!おめでとう!」と小泉元総理ばりに叫んでしまった。

 


感動した!

若い人には通じないですね…

 

 

 

ゲゼルシャフトの住人

 この友崎くんチャレンジに参加しているのはどんな人たちなのだろうか?謎を調べるべくこの1週間以内に友チャレのタグを使用しているアカウントを片っ端からリストに入れツイートやプロフィールなどを見てみた。まず、継続的に友チャレを行っているアカウントは40人程度であった。鍵垢などは見れないが内容の性質上、公開垢でやっていない人間はかなり少ない考えられるので、僕が観測できないものを含めても50人が関の山だろう。50人というと少ないと感じるかもしれないが、この難行を続けている人間が50人もいるのは割とすごいと思う。2019年6月9日の屋久先生の投稿以来、数多のアカウントが友チャレをやっていたが毎日ツイートするのに疲れるからか、すぐやめてしまうアカウントも多いのだ。まさしく継続は力なりというやつだろう。しかし友崎くんチャレンジャーたちの最も評価に値する点は別にある。原作では友崎文也に最強の師である日南葵がついいているが、現実の彼らには師匠がいないのである。自分で課題を決め、自分で反省をし、自分でミスや失敗をフォローしなくてはならないのである。彼らは友チャレの性質上、自分より上位の参考になる意見をくれる人間にアドバイスを求められないというハンデも負っているのである(なぜならクラスカーストを上げていこうとするときに教えを請えば、明確な上下関係ができてしまい不利になるからだ)。こんな状況、作中の友崎くんの数倍はハードモードだ。にもかかわらず彼らは果敢に挑戦し続けている。彼らは失敗も隠さずツイートし2ヵ月くらいすると、自身でも変化を感じたと言うようになる場合がほとんどである。こうしてみると、友崎くんチャレンジャーって努力を継続でき、他人の助けがなくても自分の目標を少しずつ達成できるかなり有能な人種ですね。自己責任論者になる素質たっぷりですよ。

しかし良い面ばかりではないと思う。彼らのツイートを見ていると手段が目的となっている人が多いのだ。リア充になることが目的なのはわかるが、人生を楽しむためにリア充になっているはずなのである。ところが、「今日は何人に話しかけた。あんまり返事をしてくれなっかた人がいたので次は話してもらえるようになりたい」、「クラス内の勢力図的にどのグループに入ればいいか悩んでいる」といったようなクラス内での地位を確立するために他人を利用するかのような投稿が散見されるのだ。これは作中でチャレンジャー側の友崎文也よりも指導者側の日南葵の思想に近く、3巻において彼女が乗り越えるべき課題として明示されているのだが、意外と読者はこのことに無自覚であるようだ。だからこそ最新刊まで追っているような、コアな読者層であるはずの友崎くんチャレンジャーも同じような思考に陥ってしまうのだろうか。彼らは心開ける友人を探しているわけではなく、ただリア充になりたいだけである。だからインキャと呼ばれるクラス内カースト下位の友人を作ろうとしていない。クラスというゲマインシャフト的な世界の中にいるのに、ゲゼルシャフト的世界観で生活しているのはあまりにも虚しくないか?

 

 

失われた青春の亡霊

この記事のために延々と友崎くんチャレンジ界隈を見ていて、ある界隈のことが頭に浮かんだ。それはナンパ師界隈だ。この界隈についてはしっかりと調べていないし調べたくもないのだが、たまに興味本位で覗きに行く。界隈には何人かの教祖的なナンパ師がおり、彼らのもとに弟子を名乗る人々がついて、ナンパの方法や脱非モテテクなどを学び、それぞれのグループを形成している。彼らも友崎くんチャレンジャーのように、日ごろの成果を報告しあって相互にモチベーションを保っている。そして彼らの教祖達が共通して主張することの中に「女を人として見るな、モノとして見ろ」というものがある。これもある意味友チャレの負の面に似たものを感じないか?

ナンパ師界隈を形成するメイン層は大学生~30代前半で、それまで女性関係で報われない人生を過ごしていたインキャ~普キャ的な人々が多い。ようするに年齢層が違うだけの友崎くんチャレンジ界隈なのだ。いまだに青春時代の真っただ中にいる友チャレ民のほうはまだ純粋さを感じるが、青春時代の全てを棒に振っているナンパ師界隈は半ば女性への復讐心のようなものを原動力にしており醜悪さが目立つが....

まあ友崎くんチャレンジを通じて中高時代にちゃんとした青春を送れば、ナンパ師界隈みたいなものにたどり着かないと考えれば前者のほうがましなのかもしれない。しかし悲しいかな友崎くんチャレンジを通じて彼女ができた人は今のところ観測できていない。彼らの弱点は日南葵のような女性の味方がいないことであり、異性攻略にはかなりハードルが高いのだろう。唯一、「付き合う一歩手前です」というようなツイートをしている垢をみつけたが、悲しいことに彼はもともと陽キャグループにおり、より陽キャになりたかったから始めたという役に立たないサンプルだった。あとは本人は女性と仲良くなれていると思って成果報告ツイートをしているが、よく読むと「それは勘違いかお情けだよ」と言いたくなるようなものばかりである。

やっぱり、オタクに恋は難しい。

 

 

おわりに

 友崎くんチャレンジをここまで熱心に調べた人間はいないのではないか。なんなら作者よりも詳しいかもしれない。アニメ化したころには友崎くん界隈の重鎮認定間違いなしである。今回はtwitterの1ムーブをとりあげているので、実際のツイートを引用したいが、面倒なことになると嫌なので作者のツイートに限って掲載した。気になる読者諸君は自分でタグを調べることをおすすめする。

ここまで8本の友崎くん記事を書いてきたが全部で約2万字程度である。文庫本の1ページが600字程度なので、文庫本換算にして33ページだ。かの偉大な俺ガイルの作者渡航先生は「弱キャラ友崎くん」(小学館ライトノベル大賞応募作品当時は「満点飾りの頑張り論」という題名)を評してこう言った。

 

70ページに1行くらいの割合で訪れるちょっとおかしみのあるセンテンスは好きです

(2016年第10回小学館ライトノベル大賞講評)

 

僕のこれまでのブログに1行でも面白いと感じられるセンテンスがあったのだとしたら、僕は2016年の屋久ユウキ先生を超えたということに違いない。ライトノベル作家デビューも夢じゃなくなるということなので、もし面白いと思った方は教えてほしい。

「君の作った味噌汁を毎朝飲みたい」

はじめに 

 いつも気取った題名をつけていると思われてそうなので、今回は古典知識もサブカル知識もいらない庶民派な題名にしました。もちろん「君の膵臓が食べたい」のパロではないですよ。記事の内容ですが、「名前の無い怪物/NO NAME  MONSTER」の論理補強となる一文を発見したのでそれについて語っていきたいと思います。

 

 

イブの肋骨からアダムを造る

 日南葵が友崎にたいして人生の大目標として提示したものが、「日南葵と同じ程度のリア充になる」というものである。これが実際登場する部分を引用しよう。前後も重要なのでそちらも引用する。

 

 

友「ってことは大きい目標が・・・『リア充になる』ってことでいいのか?」

日「そうね。まあリア充って言っても程度があるから、最終目標にするくらいなら『私と同じくらいの』リア充になる、ってところかしら」

友「それは・・・ちょっと厳しすぎるのでは・・・」

日「たしかに校内随一のぼっちのあなたと、校内随一のリア充の私じゃあ差が開きすぎてはいるわ。でも、私の言うことをしっかりこなしていけば、なんとか達成できないこともないわね」

弱キャラ友崎くんLv.1 P86)

 

 

もちろん物語の表面的主題の脱インキャの点から見てもこの「最終目標にするくらいなら『私と同じくらいの』リア充になる、ってところかしら」という一文は非常に重要であることはまちがいない。アニメ化したらいい感じのBGMが流れそうだといいたいが、前後の流れがいまいちよくないので実際は微妙である(アニメ化決定してるので放送したら絶対見ましょう)。冗談はここまでにして本題に入ろう。実はこの一文がこの物語の隠れたもう一つのメインテーマを提示している。これは友崎の目標である一方、日南自身の「自分に限りなく対等な人間が欲しい」という願いを含んだものなのだ。最底辺の友崎に人生が楽しいことを教えるならリア充になるでいいはずである。それなのに日南はわざわざ自分と同じレベルと訂正させ、私のサポートがあれば達成できないこともないというのだ。日南の次にスクールカーストが高く勉強、運動の面でも日南の次席を確保している七海みなみ(みみみ)が、生徒会長選挙で挑んできたときでさえ「みみみでは私に絶対勝てない」とまで言い切った日南が自分と同レベルになれるといったのだ。これは全てにおいて誰にも負けない努力をし、一番であるという自負を持つ日南葵が唯一、アタファミという格闘ゲームにおいてはどれだけ努力しても、それを超える努力で勝ってくる友崎に人一番目をかけており、期待が大きいからこそ彼ならば自分と同じ努力ができるだろうと思ったゆえに出た言葉なのだ。そして日南葵は人生の勝者であり続けようとするがゆえに、友人をステータスでしか見ず、分厚い何重ものペルソナをかぶって表面的な人付き合いしかしていない孤独な人間なのである。あの子と仲良くなったら楽しそうだから友達になるのではなく、あの子と友達になれば利益があるから友達になるのだ。そんな日南葵には対等に思える人間などいなかった。彼女の孤独への疲れを無意識に感じさせるシーンがちらほら作中で見受けられる。そんなところにあらわれたのが、ゲームの世界とは言え初めて対等に感じることのできた友崎である。彼をゲームの外、現実世界でも自分の隣に置くために彼女は友崎に自分と同じレベルのリア充になるよう求めたのだ。

こうしてみると「君の作った味噌汁を毎朝飲みたい」というのが告白ならば、例のセリフだってもはや告白のようなものである。最近のオタクが軽率に使う「尊い」という言葉は死ぬほど嫌いで今まで一度も使ったことがないが、あえて言わさせてもらおう。

 

ともひなマジ尊い

 

 

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所詮、ラノベなので1巻の表紙キャラとくっつくのはわかってんですよ...

 

 

 

おわりに

 完璧な人間を目指して作られたフランケンシュタインの怪物は自己の存在意義の揺らぎを感じ、自分の伴侶となりうる人造人間を作るようヴィクター・フランケンシュタイン博士に求め、拒否されたために絶望し創造主たる博士を殺害してしまった。しかし究極の自力救済論者日南葵は自分でもう一人の自分を作り出そうとしたのだからさすがとしか言いようがない。